プロデビューを目指す競輪学校生徒サイト

生徒インタビューリポート 金田洋世編

2014/01/28

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ビーチバレーからガールズケイリンへの挑戦。

そのきっかけとなったのが、親から見せられたという、ある新聞記事だった。
「ガールズを知ったのは、私がまだビーチバレーをやっていたときに、父から重光(啓世・102期)さんの記事を見せてもらったときです。重光さんは久光製薬でバレーボールをやっていて、そこから競輪に行った人がいるよと。まだそのときは、やりたいとは思っていなかったので、脚も太くなるし嫌だわぁと思っていましたが(笑)。でも、それから2、3年が経って、心のどこかに残っていたんでしょうね。個人スポーツをしたいと思うようになったときに、そういえば父が『競輪やってみたらどうか』と言っていたなと思い出したんです。そこがきっかけですね。それに『ひろこ』や『ひろみ』はいましたけど、『ひろよ』は珍しい名前ですよね。重光さんと同じだし、競輪界に2人。しかもバレー出身。運命を感じました」

 とにかく元気な子だった。小さいころ、それも産まれたばかりのころから、その活発さは今でも家族の語り草となっている。
「母が言っていたのは『脚力があった』と。ベビーベッドに寝かされていたんですけど、母がちょっと出かけるからといって寝かせていたら、帰ってきたらいなくて。そうしたら、自分で下の方に動いていて、この子は足が強い!と思ったらしいです(笑)。小学生のときも、すごく運動が好きでした。出身は大阪なんですけど、長居競技場で『チビリンピック』があったときも、陸上をやっていたわけではもないのに入賞したり。それに小学生のときから筋トレもやってましたね。GIジェーンという映画を知っていますか? あれを観て、決めた道を進んでいく姿が格好良いと思っていて(笑)」  

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スポーツばかりやっていたという小学生時代。小学校3年のときに「今の自分があるのも、これのおかげ」と語る、バレーボールとの出会いがあった。
「もともとは水泳を週一回やっていて、姉がバレークラブに入っていたので、その迎えにいっていたんです。何回か迎えに行っている間に、そこの監督が『ひろ(当時の呼び名)、お前、サーブを打ってみろ』と言われたんです。みんなは横でパーンと打っていたのに、私は普通にバーン!とサーブを打ったんです(笑)。それで、監督からも『来い』と。珍しいこと、新しく始めたことが楽しいと思えて、どんどんバレーボールに入っていきましたね。それからは燃え尽き症候群とかで何回か止めようと思ったときはありましたけど、でも自分にはバレーしかなかったし、進学も推薦でしたから。ちなみに身長は小学校6年生のときに、すでに164㎝あって、体格にも恵まれていたと思います。身長は今と変わらない、体重は全然違いますけど(笑)」 

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個人なら全部自分に返ってくるから

大学を卒業してからは「今までは夏だけやったりはしましたが、専門にやってみよう」と6人制のバレーボールからビーチバレーへの挑戦を決める。新潟にチームが出来たこともあり、そこで2年間アマチュアとして参加。09年の新潟国体が終わった後に、晴れてプロに転向した。
「プロで3年間、ビーチバレーをやってきました。ビーチバレーは2人でやりますが、1人が狙われるとずっとその1人が狙われるんです。だから片方はトスを上げるだけになってしまう。私は攻撃力があったので、狙われることがあまりなく、だから、ずっとトスを上げることになって、『なんで?』とモヤモヤしていました。本当は、そういうことを思ってはいけないんです。6人制のバレーも一人ではできないのに、そこを求めてしまう。もどかしかったんです。それで個人なら全部自分に返ってくるから、やってみたいな、どこまでできるのかなと。ビーチバレーの大会に出ながら来シーズンは出ずに引退しようと決めました。シーズンが10月までで、ガールズの試験が11月。10月の大会が終わってから、すぐに切り替えて練習をやりました。(受かったのは)ラッキーガールという感じですね」

ビーチバレーの聖地は「平塚」。

プロとして主戦場としていたその地は、ガールズケイリンが産声をあげた地でもある。師匠は渡邊秀明(68期)、平塚をホームバンクとした新たな競技生活がスタートした。
「ガールズケイリンをやりたいと思ったときに、ビーチバレーでお世話になったトレーナーが、もしやるなら師匠をつけないといけないから紹介するよという話になったんです。そして、そこでトレーニングをしていた渡邊秀明さんが見てくれることになりました。師匠をつけることから、何もわからず、あてもなかったのですが、『もし平塚で選手やるというなら全面的にバックアップをしてあげられるから』とおっしゃってくれて。初めて会うのにこんなこと言ってくれるなんて、この人に付いていこうと決めました」

だが、自転車ついては初めてのことばかり。可能性として未知な部分も大きい分、卒業やデビューを前にして不安に感じることも多い。
「(競技用に)乗ったことがなかったんです。競輪学校を受ける前は、試験に対応する練習でパワーマックスを主にやっていて、合格が決まって1月から本格的に乗り始めた感じです。だから、まだ自転車との一体化というか、操っている感じがなくてバラバラ。恐怖心もあって、楽しいという感情がまだ湧いてこないので、今ちょっと悩んでいます。卒業してデビューまで、あと少ししかないんだなと思うと焦りますし、やらなくてはいけないことがたくさんありすぎます。競走訓練でも、まだ1回も1着を取ったことがないんです。学校でも勝てないなら、デビューしても勝てないと思いますし、基礎を知らずに入ってしまったので、そういうところから改善していきたいですね」

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お客さんの人生も背負っているという気持ちで

もちろん他競技からの転向は、いきなりその素質を大きく開花させるものもいれば、じっくりと一段一段、着実にレベルアップするものもいる。そしてバレーボールで初めてサーブを打った、あのときのように。ひとつのきっかけで、大きく世界が動き出すことだってある。
「バレーでも試合になると燃えてアドレナリンが出るタイプでした。練習でしないことができちゃうとか。そういったことが自転車でも起こるのかなと。年齢と共に、勝ちたいという気持ちや、何くそという気持ちは減っていくんじゃないかなと不安にはなります。でも、今までやってきた競技はお金が賭かっていないし、お金を払って見にきてもらったお客さんに感動や勇気を感じてもらえたらいいなと思っていましたが、競輪はお金を賭けてくれる人がいます。お客さんの人生を背負っているという気持ちでやらないといけないと思うし、金田に賭けていれば大丈夫と思われるような選手になっていきたいと思います」

 そして、ちょっとした楽しみも最後に明かしてくれた。
「次回生にも、私の妹弟子(尾崎睦)が入ることになったんです。同じ年齢で、ビーチバレーのときに一緒に組んだこともあって、私が卒業してから彼女が競輪学校に入るのでニヤニヤしてしまいます。私も無事に卒業して、彼女もデビューしたら楽しみですね」