プロデビューを目指す競輪学校生徒サイト

桜のごとく、華麗に強く~山原さくら

2013/02/05

冬の「お山」は寒い。 



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伊豆・修善寺の競輪学校の333㍍ピスト、通称「さんさんバンク」の競走訓練だった。寒風が山から吹きつけてくる。号砲が鳴る。山原さくらは一気に駆けだした。
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「寒さは全く感じません。発走前は結構、足が寒さで震えているんですけど、出た瞬間、寒さを感じなくなります」
1月下旬。1本目は追い込んで最後に差し、2本目は先行逃げ切りで快勝した。2戦2勝。柔和な笑顔に充実感があふれる。
「やっと競走訓練に慣れてきたかな、という感じです。ちょっとですけど。まだまだ、いろんな戦法を試したい。自分にはどの戦法が合っているのか。できれば、先行逃げ切りでいきたいですけど」
競輪学校に入って、間違いなく、脚力はついた。当初、スタンディングのスタートが遅く、イメージと走りのギャップが大きかった。
「人より、スタートの一歩、ニ歩、三歩が遅くて、ホーム側にきて、コーナーでちょっと出るという感じだった。先行したくても、ぎりぎり出られるか出られないかという微妙なところをさまよっていました」
でも、いまは違う。だから、笑って振り返ることができるのだろう。徐々にダッシュ力がついてきた。一緒に走るメンバーの特徴を考えながら、勝つレースを組み立てることもできるようにもなってきた。

約10㌔も体重減
 
脚力が変わったけれど、実は体型も変わった。入校してから、ざっと10㌔、体重が落ちたのである。「競輪学校ダイエットですね」というと、声を上げて笑った。
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「お陰さまで。ピークの時は10㌔、落ちていました。今は8㌔、9㌔落ちて、65㌔くらいです」
なぜ、入校時に体重が重かったかというと、入校直前の2カ月間、まったく練習ができなかったからだった。昨年3月上旬、のどの腫瘍摘出と鼻の気道を広くする手術を受けた。子どもの頃から鼻の空気の通りが悪く、運動をすると息遣いが普通ではなかった。
病院でレントゲン検査を受けた。ドクターが驚いた。「よく、これで、生活をやっていましたね」と。のどにぽこりと腫瘍があり、左の鼻孔の気道がほとんど通っていなかった。
手術をしたら、気道がすっきりした。当然ながら、呼吸がラクになった。
「もう世界が変わりました。酸素がおいしい。酸素の摂取量が多くなったのです」
競輪学校の乗り込みはハンパではない。とくに夏場は体重がどんどん落ちていった。スタンディングのスタートがはやくなった。
「食べても食べても、落ちて落ちて。軽くなった。女性として、普通にうれしいですね。毎日、体重計に載るのが楽しかった」
そういえば、夏の帰省の時、と楽しそうに思い出す。
「やせたので、学校の制服がでかくなってしまって…。シャツもスカートもぶかぶかで、シャツを腰に収めると、ぐちゃぐちゃになってしまった。両親から、“どうしたの”って言われて、爆笑されました」
でも父からは言葉を足されたそうだ。「足は健在だね」と。父の利秀さんはご承知のごとく、競輪選手(63期)である。競輪選手という職業にとって、たぶん「足が太い」はほめ言葉なのである。

遺伝子はコワい 

四国は土佐の高知出身。
高校時代まではスポーツをすることもなく、ダンス&ボーカルユニットの「Exile」(エグザイル)の熱烈なファンだった。アルバイトで資金を作っては、東京のコンサートに出かけでいた。
転機は高校2年から3年に進級する頃だった。父が『女子競輪復活』という見出しのついた新聞を持ち帰ってきた。父は反対したけれど、母が執拗に自転車挑戦を勧めてきた。「自転車で優勝したら、エグザイルに会えるよ。やれやれ、乗れ乗れ」と。
母の熱意におされ、ものは試しと、山原は父と一緒に街道練習をやってみた。太平洋の海風を受けながら走ってみると、なんとフォームが親子でそっくりだった。母の驚きを今でも鮮明に覚えている。
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「“気持ち悪い”って。まったく乗り方が一緒だから、“遺伝子ってコワいわ”って。物心ついた時から父のレースをみていたからですかね」
母からは「イケる」と言われた。「絶対勝てる。全然イケる」と。よし、と山原は決断する。まずは自転車でロンドン五輪に出場する、と。でも高校の担任や友人たちからは自転車挑戦を嘲笑された。
「みんなが就職活動を考えている時、オリンピック目指します、競輪目指しますって言ったら、やはり現実的にどうなのって思われますよね。でも、そんな態度にものすごく腹が立った。じゃ、結果出しますって」
ガールズケイリンを目指すと決めたら、母は大はしゃぎだった。競輪の大ファンの祖父はもっと喜んでくれた。
闘争心に火がついた。父とダッシュ練習を繰り返し、太平洋岸の黒潮ラインなども走った。耳にはExileの『EVOLUTION』が流れていた。<強く強く、また昨日より、もっと強くなる~♪>
父の指導は時に厳しく、時にやさしかった。そう追い込まれることはなかった。
「父の指導はものすごく熱い感じじゃない。でも一本一本、集中して、出し切るようにという雰囲気が伝わってきていました」
結果はすぐ出た。2010年5月のJOC(日本オリンピック委員会)ジュニアオリンピックカップ自転車大会のスプリントで優勝し、10月の全日本選手権トラックレースのスプリントでは2位に入った。高校卒業後は地元高知市内の会社に就職し、11年5月の全日本アマチュア選手権トラックレースのスプリントを制した。ロンドン五輪に向けたナショナル候補チームにも一時、入った。

記憶に残る選手になりたい。

学校では「女子力」に定評がある。「女子力抜群ですか?」と聞けば、山原は照れ笑いを浮かべ、右手を左右に振った。
笑い転げる教官を見て、ぷいと口をとがらせた。
「先生、笑い過ぎですよ。それは周りが言っているだけで、自分では女子力がないので、人より少しがんばっているだけです」
ただ美しいものが好きだ。フィギュアスケートの浅田真央にあこがれ、ファッション誌もよく見る。メークアップ・アーティストやネールアートのネイリストになりたかった。
ハタチとなった。1月、学校のある伊豆市の成人式に出席した。地味な濃紺の学校の制服姿だった。「もう少し着飾りたかった」と小声で漏らす。
「アウエーの成人式でした。ははは。今まで十代だったら許されてきたのが多々あったので、これからは気持ちを入れ替えて、もっともっと大人の態度をとっていかないといけないと思いました」
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もうじき卒業。やがてガールズケイリンでプロデビューすることになる。
「一番の気持ちは、賞金女王よりも、パワフルな走りで、ファンに忘れられないようなインパクトある強い選手になることです。記憶に残る選手。金網越しに絶対見たくなるような選手になりたいのです」
ちなみに名前の「さくら」は父が付けてくれた。日本の花の象徴のごとく、おおきく美しく育ってほしいとの願いを込めて。

夢は。
「(競輪界でも)勢いよく咲いて、いつまでも咲きっぱなしでしたい。父にも、もうひと踏ん張りしてもらって、“親子そろって強いな”と言われるようになりたい」

さくらの夢は父の願いでもあろう。さくらが走る。親子の夢に向かって。