プロデビューを目指す競輪学校生徒サイト

『真摯に。コンコルド父子の新たな夢~菅田賀子~』

2013/02/23

「コンコルド菅田」をご存じか。
 乗車フォームが美しく、超音速旅客機のごとく、長めのまくりを得意としていた菅田順和(36期・引退)という競輪選手を。
では、その長女の菅田賀子はご存じか。
ただいまガールズケイリン・デビューを目指し、競輪学校で厳しい鍛練を積んでいる。
気丈で繊細な27歳。偉大な父や兄の和宏(88期)と比較されつつ、歯を食いしばり、眠った素質をコツコツと磨いてきた。

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1月某日。伊東温泉競輪場での初の実習訓練だった。柔らかい冬の陽射しの下、菅田はペダルを踏み続けた。よく見れば、色白のほっぺが赤みを帯びている。
競輪学校に戻って、寮でのインタビューである。どこか白ユリみたいな清楚さがただよう。練習の調子を聞けば、菅田は苦笑した。
「みんなについていくのがやっとです。スピード、スキル、体力…。すべてのレベルアップを目指しています。やることがいっぱいありすぎて…」
やはり聞いておこう。競輪ファミリーの一人として同じ世界に入ってどうでしたか。
「(競輪界に)一歩、足を踏み入れたら、父も兄もまじめに仕事をしてくれていたお陰で、自分が他の選手の方々からよくしてもらっています。助かるというより、ありがたいなと思います。改めて父や兄を尊敬しています」

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一昨年11月に引退した父はコンコルドと呼ばれていた。ニックネームを持つということはファンから愛されていたということだろう。娘から見たら。
「愛称があるというのはすごくいいことだと思います。子どもの頃からわたしの自慢でした」
でも正直、“コンコルド2世”とは呼ばれたくはない。父みたいな強くてファンに愛される選手になって、独自の愛称を付けてもらいたいのだ。まだまだ未熟。今の実力は「コンコルド(Concorde)」の「コ」ぐらいですか、と聞けば、菅田は笑って否定した。
「まだ全然です。コの字にも届いていません。アルファベットの頭文字のCにも届いていない。これで勝負していくという武器を探している最中ですから」
 

震災が転機に

宮城県仙台市出身。自転車競技とは無縁の生活を送っていた。ただ自転車に乗るのは好きだった。
「ふつうの通学用の自転車で遠くまで行くのが好きだったんです」
仙台の聖和学園高校では弓道部に入っていた。卒業後は、イラスト・美術系の専門学校に進んだ。イラストの勉強に没頭した。
「絵を描くのがすごく好きで。全然、スポーツはしませんでした。机に向かって、かりかりと絵を描くばっかりでした」

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専門学校を卒業した後、プロのイラストレーターを目指したが、1年ぐらいで断念した。地元仙台の靴の卸しの会社に入り、事務職として4年間ぐらい働いた。
転機は2011年3月11日の東日本大震災である。その時、菅田はプレハブの事務室で机に向かっていた。
いきなり大きな揺れがきた。菅田は腰を低くして、机にしがみついた。揺れは強さを増し、一向におさまる気配がなかった。窓ガラスが割れ、机のものが落ちてコワレた。
「大きなヒーターがひっくり返りそうになったので、みんなでそれを押さえました。大きな揺れが終わったら、また大きな揺れがきて…。がたがた揺れて」
揺れが止まる。けがはなかった。家族が心配だったので、仙台市の自宅に自転車で向かった。大きな道路の信号機は消え、道路のアスファルトもところどころ陥没、電信柱がひっくり返っていた。
海岸側にある家に着いた時、救助ヘリコプターから「津波がくるから逃げてください」という大音響のアナウンスが流れていた。車で脱出し、難を逃れた。自宅は大丈夫だったけれど、近くの民家は津波に持っていかれた。
これで人生観が少し変わった。会社は10日間自宅待機となり、食料が不足しながらも、みんなで助け合いながら過ごした。それまでのフツーの生活がなんとありがたいものなんだと痛感した。
「もう、なんか、こんなことなら、もっとやりがいがあることをやろうと思い始めたのです。もうちょっと、日々を一生懸命に生きようと決めたのです」
電気は途絶えたままだった。夜、寒さに凍えながら、家族でロウソクの火を囲んでお茶を飲んでいた。
その時、母がぽつりと漏らしたそうだ。「女子競輪も始まるんだよね」と。語尾が上がるイントネーションで菅田がまねて見せた。
「女子競輪も始まるんだよねって。
そのひと言がなんとなく、ひっかかっていたのです。10日ぐらいが経って、電気が復旧したら、インターネットでガールズケイリンのことをチェックしてみたんです」
YOUTUBEではガールズケイリンのエキシビションレースを見ることができた。
「カッコいいナ、やってみたいナと思ったんです」

飛べ、がっちゃん。
 親に旅行をプレゼントしたい

やりたいと思ったら、話がとんとん拍子で進んでいった。父は反対すると思ったので、まずは兄に相談してみた。落車でケガをする危険性があるから薦めはしないけれど、「本気でやりたいなら、やってみればいい」と言われた。母の反応も同じだった。
会社の上司にも相談したら、慰留されたが、最後は「やりたいならやったほうがいい」と背を押してくれた。本当に上司には感謝している。仕事の引き継ぎをして、8月いっぱいで退職することになった。
震災の影響で仙台には練習する場所がない。ネットで検索したら、加瀬加奈子(ガールズケイリン一期生)がいる「クラブ・スピリッツ」(新潟)の案内が出てきた。練習環境が整っていた。加入手続きをとり、宿舎となる新潟のアパートも決まった。
「あとは(競輪学校受験の)願書を出すだけとなってから、父に打ち明けました。ダメとは言われたくない。もう決めました。サイン、よろしくお願いしますって」
当然、父は落車やけがを心配した。「痛いんだぞ。させたくない」と。それでも必死に頼み込むと、最後にはサインをしてくれた。「ここまで話が進んでいるんだったら、やってみろ」と。父はその後、関係先の競輪選手会の支部長や競輪仲間に連絡をしてくれた。
慌ただしく日々が過ぎていった。8月に願書を出し、9月1日に新潟に引っ越した。年明けの1月に試験かと思っていたら、二期生のそれは10月だった。
「え~という感じでした。1カ月しか時間がない。でもやるしかない。もうやれるところまでやろうかな。やらなきゃって」
師匠の小川隆(45期)からマンツーマンで指導を受けた。父譲りの負けん気と集中力だろう、競輪学校には合格した。
「勢いで入った部分があります。勢いしかなかったので、いま、すごくつらい思いをしています。頑張ってはいるんですけど、ちょっと伸び悩んでいるナって。課題は全部です。脚力も基礎体力も」

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じつは肌が弱い。体質的につよい陽射しが苦手なため、夏場でも長袖姿だった。「ほんとうは、脚ぐらいは焼きたかったんですけど」と寂しそうに笑う。
「訓練のビデオを見ていると、白さですぐわかるのがちょっと悲しいかな。もうちょっと黒くなりたい。みんなみたいに黒い脚になりたいんです」

趣味は映画観賞。両親を尊敬し、父と兄を目標選手にあげる。名前の賀子は「のりこ」と読む。でもニックネームが「がっちゃん」身長167㌢。モットーが「真摯に」。
最初の賞金の使い道は決めている。両親に旅行をプレゼントしたいという。
「そういうものをプレゼントできるようにがんばります。いずれ世界一周に行ってもらえるくらい、大きく稼ぐことができればいいですけど。まずは箱根とか。ははは」
そういえば、元旦、仙台市内の神社に、両親と兄夫婦、妹と一緒に元朝参り(初詣で)に出かけた。菅田は祈った。
「無事、学校を卒業できますように」
一歩一歩。そしてプロデビュー。がっちゃんも飛ぶだろう。コンコルドのごとく。いや自分のスタイルで。